赤ずきん
赤ずきん
あっ、こんなところにあったんだ! おばあちゃんが編んだ赤いモヘアのマフラー。ショールのように幅広なので、私はこれをマチコ巻きにして、ヴェニスの大水&大雨をしのいだんだっけ。おばあちゃんは旅のお守りに、キーホルダーに仕立てたマイクロ版の聖書と、この赤いマフラーをくれた懐かしの思い出。おばあさんと孫娘って、なぜか赤ずきんめいてしまうのは、どうしてだろう?
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赤ずきんのお話が面白いのは、赤ずきん、オオカミ、おばあさんがつぎつぎ入れ替わるところ。赤ずきんを食べたいオオカミは、おばあさんの家に行って赤ずきんの声をまねて、おばあさんの家の中へまんまと侵入、たちまちおばあさんを食べてしまって、おばあさんに成りすます。そこへ赤ずきんがやってきてベッドに入ると、今度はおばあさんがオオカミに変貌、赤ずきんを食べてしまう。一人の少女をゲットするために若者は、まずターゲットの少女をまねて、バリケードのおばばを突破。そこで今度はおばばに成りすまして少女を安心させておいてからガブリ! 若者は獲物を追って遠くまで出かけなければならず、そこには作戦、突撃、突破、撃破、そして撃沈がある。撃沈? グリムのお話ではそうなんだよね。
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シャルル・ペローの赤ずきんは、おばあさんと赤ずきんは二人とも、オオカミに食われっぱなしで終わるんだけど、グリム兄弟の場合は、猟師のおじさんが助けに来る。おばあさんと赤ずきんを平らげて、お腹いっぱいのオオカミが眠っている隙に、猟師のおじさんは丸のみにされた赤ずきんとおばあさんをお腹から取り出して、かわりに大きな石を入れてお腹を縫い合わせておく。目を覚ましたオオカミは水を飲もうと池に行くんだけど、お腹の石が重いので、池に落ちておぼれ死んでしまいましたとサで完。
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男(オス)のお腹から、少女と老女が取り出されるって、なんだかすごいわねって感じだけど、神話の世界では男性が何かを生むっていうのあり。イザナミ亡きあと、イザナギが一人でもろもろを、お生みなされたが、それはつくづく大変なことであり、これはマリア様が一人でイエスをお生みなされたのと一緒だと、日月神示にあったなぁ。こういうお話って、命を生むって肉体レベルの前に、もっと霊妙な世界からの働きがあるって教えているんだと思う。マリア様の処女懐妊について、いちゃもん言う人はこの霊妙なところに意思気が行っていないんじゃないか?とかね。
闘いの女神アテネもゼウスの頭から生まれている。ゼウスがあまりの頭痛に耐えかねて、頭のハチをかち割ってもらうと、中から甲冑に身を包んで現れたつわもの処女神。男性の頭から生まれたのが闘いの女神っていうの、うがっているよね。そして我らが赤ずきんとおばあさんは、オオカミの腹という冥府から生還した強運の持ち主。おばあさんと孫娘の共犯関係は、なかなか深いのだ。
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私はおばあちゃん子だったので、おばあさんと孫の間には、どこか共犯関係があると思ってる。おじいさんと孫息子だってきっと同じだ。それは若者と老人は時代のアウトサイダーだから。古い時代が培ったものと、まだ見えない未来の間には、何か不可視の魔物がいる。それがオオカミ。彼は一見、敵だけど味方でもあり、そしてちゃんと仲間だ。どうして仲間になれるかは秘密だろうけど、うまく仲間になれば長靴をはいた猫みたいに、ギフトをもたらしてくれる潜在的なパワーだ。
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そしておばあさんとオオカミの間にも共犯関係がある。やりてババアが、若い女を男に手引するとかじゃないよ! まことのお力というのは、もっと深いところで働いていて、人の心をつなげているから、老女は若い男性のこと、よく解っているってこと。もちろんおじいさんだって、若い女性のことをよく解っている。自分が人生に悩んでいた少女の頃、画家だった大伯父(私との年齢差62歳)と話をして、なんだか救われた気持ちなったように。
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人は魂の旅のどこかで、男だったり、女だったりするから、みんな、赤ずきんでも、おばあさんでも、腹をすかせたオオカミでも、猟師のおじさんでも、木こりでもあるんだ。
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日頃、目に見えない潜在的なもの。心の奥に押し込めてあるものが、ある日、忽然と現れる。でもそれは準備ができたから。さあ、出てきましたよ。解決してごらんなさいの人生の課題だ。
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じつは今、家じゅうの片づけをしている。ひと月くらいかかりそうな、大々的な断捨離だ。家人たち亡きあと、住まい方が変わったのに、そまま放置していたことに、ついに取り組みはじめたのだ。それで祖母がお嫁に行くとき、曾祖父から持たされたという桐のタンスの整理も始めて、引き出しに赤ずきんのマフラーを見つけたのだった。
家じゅう散らかって、収拾がつかないもんだから、もう情けなくなって涙が出たんだけど、泣いたら判ったことがひとつ。もうずっと自分を追い立てて生きてきたから、楽しんでやるってことを忘れていた。
自分の家なんだから、好きなようにやっていいんだ。締め切り日があるわけじゃなし。介護に突入してから、長い間、自分をがんじがらめにしていたんだなぁ。南先生にも言われたっけ、これからは自分らしく、楽しく生きていただきたいと。楽しく暮らすことも練習しなくちゃできないようになっているなんて?! でも気が付いて良かったんだよね。
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