光と影
光と影
光あれ! 神のことば通り、光が生じたと福音書に書かれています。闇は光に打ち勝たなかったと続いています。何を言わんとしているのか? 言葉のエッセンスを感じ取る、聖ベルナルドの言う感覚で神を掴むを、実行しなければ。
闇と言うと否定的なイメージが先行してしまいがちですが、闇は闇ではないと気が付いたところがあって、闇は光の揺りかごだったと、考えを改めました。何も見えないと、何もないと思いがちですが、何も見えないところでも、あらゆるものに成りえる何かで満たされている。これがきっと本当なのです。
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子供頃、闇の中を光の細かい粒が移動しているのをよく見ていたのですが、あの粒は空間を満たしている霊妙なエネルギーの現れだろうと、思うのです。光は物質の中でいちばん希薄な、霊に近いものではありますが、霊のサイドから見ればいちばん物質的なのだそうです。
私は勤めに行く時、神社の境内を通って、本堂に一礼してから通り過ぎているのですが、毎回、水色の光を見ます。ちょうど本堂の屋根、右上の辺り、後ろに立っているクスノキの梢に、ぼうっと水色の光が見えるのです。初めは水蒸気かと思いましたが、やはり祈りこめてきた場所には、お守りパワーが宿っているのだと思うようになりました。
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最初の鳥居をくぐったところに、小さな掲示板があって、神社に祠が建てられたのは16世紀のことだと書かれています。初めて読んだとき、ルネサンスの頃(日本では信長が倒れて、キリシタンの少年使節団がローマへ派遣された頃)からこの地で、みんなが手を合わせてきたんだなぁと、しばし感慨に浸りました。
クスノキの梢に漂う水色の光に向かって、あなたはどなたですか? なんて話しかけたりしましたが、水色は正常波動と共振共鳴する色だと、南先生の機関誌に書いてありました。人体の80%は水分なので、水色は私たちの心身と深く関わっているそうです。
神社の水色の光、じっと見つめていると、ありがとうございますと、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。私たちが気付いていても、気付いていなくても、見守って頂いている。ということなんですね。
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ちょっと矛盾した言い方ですが、闇を満たしている光。闇の中を動いていた光の粒。白色、水色、薔薇色、金色と、とりどりで、青と緑の中間、エメラルドが私のお気に入りでした。みんな違う色の集合体なのに全体の調和があって、美しく見えましたから、すべての色、光は本来、自然に調和しているものなのでしょう。
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そうそう、機関誌には宇宙規模の波動の変革で金色、銀色が異常波動と共振共鳴する波動に変わったと、ありました。本来の天然色から離れてメッキのギラギラ波動が蔓延したのが原因らしいそうです。世の中、見せかけ重視になって、本来の姿を忘れていませんか? の警告みたいですね。
私は水晶が好きなので、鉱物をよく眺めます。天然の色はどれも穏やかで、どの鉱物も自分の喜びで輝いています。しかし宝石は紫外線や熱を加えることで、天然の色を強化していることがあります。そうして商品価値を高めているのです。そういう加工品が世に溢れているせいか、自然の色だと物足りない、地味だとさえ思えることがありますから、自分の目や価値観が、ギラギラ波動に慣らされているのが判ります。
自然の光、クスノキの梢に輝くお守りの光、森羅万象の光と影の中、自分は本当のところを見ているだろうか? 目を閉じて考えています。
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