恐怖と不安 その2
恐怖と不安 その2
恐怖と不安の渦中にあって、私だってやられっぱなしだったわけではない。何とかしようと試みた。逃げようとしても無駄。ビランの時もそうだったんだけど、逃げられない。ごまかそうとしたって駄目。だから負のエネルギーが抜けて行く過程として、向き合うしかない。そこで、徹底的に自分に話しかけた。今、何をどう思っているのかを声に出して言う。するとそれが自分の思い込みだと判ってきた。不安というのは、今ここの問題じゃない。「・・・だったらどうしよう?」から抜け出せない状態だ。恐怖は(私の場合)不安をクレッシェンドした状態なので、不安が抜けると霧散した。そして気が付いたのは「祈り」についてだった。
祈り。困ったときの神頼み。私は創作活動と介護のせめぎ合いの生活をしていた時、近所の修道院の聖堂でひれ伏して、ご聖体の前で祈っていた(つもり)だった。助けてほしかった。何かにすがりたかった。そうしていないと平静が保てないような状態だった。家族が衰えていく果てには死がある。家族が死んでいく姿を看なければならない。それは恐怖だった。そして自分の見えない将来もその恐怖に輪をかけていた。しかし、家族の死は恐怖ではなかった。あの世とこの世がつながっている事実を、私の日常にもたらしてくれた今では恵みだったとしか言いようがない。自分の心配した将来、もう創作活動なんかできないだろうも、今や通り過ぎた。
ご聖体・・・どこのご聖堂でも、小さな箱に入って、ここにご聖体がありますよと、赤いランプがともっている
そして「祈り」である。自分が本当に祈ることについて、判っていなかったことが解った。小さな家庭的なあの聖堂で、ご聖体の前にひれ伏していた自分。ひれ伏すことしかできなかった自分。そして自分でも何か届いていないと感じつつ、それ以上何もできなかった自分。今、何が自分に不足していたのか、このひと月の不安と恐怖の中で、気づき始めている。祈るとは、波動だったということに。
人を取り巻く三つの体(現実には四つだけど、実感できるのは、まず三つ)エネルギー体について南先生のご説明にもあるように、この三つの体の波動、振動、動き。自分が不安と恐怖の渦中にいたときは、感情体の中にあった想念が浮かび上がり、そして出ていくところだったから、自分というものの在りかについて、今いちど考えてみる。真夜中の座禅で体が消えて、それでも自分はぽっかりと闇の中に浮かんでいたあの体験。今、目をつぶって心を澄ますと、シーンと頭の中で鳴っているあの闇。闇は闇ではないと、以前書いたんだけど、闇という現れを透かして、世界と共振している自分。自分というエネルギー体が世界と一緒に振動している事実。これを思い出して、不安と恐怖の闇を透かして見えてくる本当の自分。本当の自分、答えは自分の内にあると言うときの自分だ。この自分、私の波動がまだまだブレているので、見つけたと思っても、すぐ行方不明になるんだけど、世界と共振している本当の自分をもってして、その波動で見る、とか、掴むとか、これが本当の祈りなんじゃないかと、今、思っているところ。ホントにまだまだ、なにもわかっちゃいないんだ。
世界と共振している私という存在
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