
降り注ぐ光のように
降り注ぐ光のように
次の日は、仙骨の調整をしてもらう日だった。南先生とは、いつもメールでやり取りをしていたので、 先生に母を亡くしたことを伝えた。先生はお母様は狭い肉体から、解放されて自由になったのですよと、言って下さった。
昼過ぎから、警察の会議室で検死の結果を待った。雨が降っていた。母は雨女だったっけ。どこかへでかけようとすると、その日は必ず雨降りだった。警察の会議室は公立学校の教室みたいだった。 天井の高い明るく白い部屋には長い机とパイプ椅子しかなくて、がらんとした広さが一層広く感じられた。 私はよりどころなくパイプの椅子に座って、担当の警部補さんが点けて行ったエアコンから温風が噴き出る音を聞いていた。正面の大きな窓からは、雨の街道を走っていくまばらな車が見えた。と、そのときだ。母の笑顔が浮かんだと思うと、上から明るい何かが私の上に降り注いできた。まるで日光が降り注ぐように、母の喜びが降ってきたのだ。お母さん、喜んでいる。嬉しいんですね。いまや不自由だった体から解放されて、リウマチの痛みも遠く去って、喜んでいるんですね。こんなにも、こんなにも、嬉しいんですね。心の中で話しかけながら、とめどなく涙が流れた。流れる涙はあたたかだった。私はこの純粋な喜びを抱きしめていた。
死は死ではない。この世からあの世へ移り変わることだ。魂は不滅だ。喜びは言葉とは違う次元でそう言っていた。これを知るために、私たちは親子だったのだ。このあと一週間の間、喜びがサンサンと降り注ぎ続けたので、私のテンションはハイだった。その中で、母の人生を想った。 母は生前、何をするにも、のろまで物分かりが悪くて、足手まといだったから、多くの人に疎んじられていた。そういう人生を歩むのは辛いことだろう。だとしたら、もしかしたら、母は大変、強い魂の持ち主だったのではないか。人は歓迎されて、チヤホヤされたいに決まっているのに、あえて茨の道を選んだのだから。
小さな使者たち
小さな使者たち
母の死以来、カラスが飛んでくると、お母さん元気?と話しかける。黒猫が通ると、おばあちゃん、アタシちゃんとやってるよ。と言う。机の上を小さな蜘蛛が歩いてくると伯父さん、アタシ絵、描いてるよと、話す。伯父さんは画家だったので、生前から絵を描く私にエールを送ってくれていた。そして死後は、守護霊となっていることを知った。人は亡くなってからも、子孫を見守りつつ、魂の修行を続けている。近しい人たちの死が、そう教えてくれた。鳥や虫が近くにやってくるのは、ご先祖たちの魂をのせているからだと、教えてくださったのは、川井春水先生だ。鳥や昆虫、小さな使者たちを通して、天国へのコンセントが、いつでも入っているようにしている。ぜひ、あなたも試してみてください。

2
表層意識の底の蓋が開いて深いレベルに達すると自由な世界に出ると思いますが、
お母様が亡くなられるまでの間に極限の体験を重ねることで、そこに達せられたのではないか。
と、今回のブログを読んで考えました。そこに至るまでの辛さをよく耐えられたと思います。
使者たちの存在を感じながら生きると深いレベルでは孤独ではないのかなと思いました。
ぼくには先祖との交流体験は今のところありません。
けれど、深い体験からモニカさんが様々学び、日々を生きて前に進んでおられることには
ブログを読みなが納得できるものを感じました。嬉しく思いました。
涼さん、いつも深く読み込んで頂きまして。確かに人生辛い時の方が、響くものがあります。
シューベルトが友人たちの前で「冬の旅」を初めて披露した時、
みんなは暗い歌の数々にすっかり閉口してしまったそうですが、
シューベルト自身は、いつか君たちもこの歌を好きになってくれるだろうと、言ったそうです。
私の人生暗かったとき、あのシュトゥッツマンの「冬の旅」が何と神々しく心に響いたことか!
21番目の「宿屋」なんて天使を見たかのような気持ちになりました。
その10年後、人生そう暗くもなくなった時、もう一度シュトゥッツマンの「冬の旅」を聞く機会があったんですが、
全24曲、歌のひとつひとつが、細胞に染みわたるような印象は、すでにありませんでした。
暗くても、暗くなくなってもの体験は、興味深いものでした。
主は言われた「いつも喜んでいなさい」と。ホントですね。